卒業の価値について
こんばんは。本日付で高専を卒業いたしました。
なんだかんだありましたが、まぁ、楽しかったです。
そんなわけで、今日は卒業という行事についてちょっとダラダラと書いてみようと思います。
今日卒業式に出席していて、どうも違和感があるなぁと思ったら、学生が一人も泣いていなかったんです。
その後に親睦会とか分散会とか、そういったものがあったからこそ泣かなかった、というのもあるんでしょうけど、でも卒業式と言ったら別れを惜しんで泣いたり叫んだりするもんだというイメージが崩れました。
しかしいざ考えてみると、卒業ってそもそも泣く理由にならなくなってきた気がしたんです。
そもそも卒業式で泣く理由というのは、今まで会っていた学生や先生と会えないとか、今までの思い出とか、そういう要因が合わさったものだと思います。
でも、昨今はSNSを利用すればいくらでもやりとりでき、思い出もデジタルで管理する時代です。特に私の通っていた学科は情報系だということもあって、SNSで連絡なんてのは当たり前で、修学旅行の写真は友人とオンラインストレージで管理していました。
「どうせ明日にはFacebookで近況更新してんだろう」、「夜にはTwitterで変態ツイートでも見かけるんじゃないかなぁ」、「なんかあったらSkypeのチャット飛ばせばいいかな」、なんてすぐに浮かんでしまう辺り、もう会えないなんて実感は微塵もありません。
そう考えると、卒業という行事の価値は、技術が発展するに連れてどんどんと無くなっていく気がして、素直に技術発展を喜ぶのもおかしい気がしてくるのです。
そして、今後はこういう価値の低下は増えていって、有り難みも薄れていって、最終的には、なにか人生がつまらなくなっていくような気までしてきます。
人と人とのつながりが容易になったということにデメリットがあるなんて、考えたことも無かったです。
今後も進学して研究とか開発とか、素人ながら必死にやっていくわけですが、その時にここで感じたことを少しでも生かした技術開発をできればいいなぁ、なんて、しょうもないことを考えた一日でした。
書ききってから気づきましたけど、なんか凄い伊集院さんの方の中二病みたいですねこの記事。さっぶ。おー恥ずかし恥ずかし。一つ、若気の至りということで許してください。