しがない学生の雑記

吐けども吐けども毒を吐く。

不可解な文章から受ける精神攻撃について

こんばんは。ざざざっと書きます。

 

いろいろあって他人の文章をすごくたくさん読む機会に遭遇しております。具体的には文化祭で出す部誌の添削作業を行っております。

 

このブログをご覧になっていただいている方ならわかる通り、私自身も相当に駄文を書く人間ではありますが、それでも定期的に文章を書いている身ではあります。また、毎日のようにはてブ経由でニュースなり個人ブログなりを読んでおりますから、整った文章にも日常的に触れております。

 

要するに何が言いたいのかというと、明らかにおかしい文章を読んだ場合は、それなりにおかしいと思うことができる、と思っております。ですから他人が書いたうんともすんとも言わない文章を読むというのは、それなりに辛いわけです。

 

こんなこと書くと上から目線で小馬鹿にしているように思われるかもしれません。でもこの際もうそう思われてもいいと思っております。だってこんな記事を書きだしたのは、この不可解な文章から受ける精神攻撃が想像以上に苦痛であるからです。

 

 

ちょっと例を出してみましょうか。

 

2.1 ○×△関数

○×△します。○だと○してしまいます。○しなければいけません。

 

この例の問題点を簡単に書いていきましょう。まず一番最初、セクションのタイトルが主語だと思ってそのまま説明しだしています。もうこの時点で気持ち悪い。本来なら「○×△関数は○×△処理を行う関数です」とか書くべきですよね。

そして、その後の文も主語がない。なお気持ちが悪いです。そしてその後、前の文と意味的につながっているので、「ですから」とか、「なので」とか書き加えないとどうもおさまりが悪いですよね。

 

あとそもそも論なんですけど、文章それぞれが異様に短い。接続詞を使って上手いこと長く書いてあげないと文章が幼稚に見えます。

 

ここで挙げた例は当然ほんの一例、しかも数文単位で見たものでしかありません。問題はこれを文章単位で考えた場合です。例えば、そもそも文章を書く目的が定まっていない、何が言いたいのかよく分からない文章が出来上がっていたり、セクションとセクションの間で急に話が飛んでいたり、全体像を説明せずに細部の説明に入ったせいで、どこの話をしているのか全く理解が出来なかったり、もう、どうしてそうなるんだって感じが言いたくなってしまうのです。

 

また、文化祭で部誌を配布するということは、当然一般の方々が手にとってくださる可能性があるということです。要するに、文章そのものを読む人間の前提知識を考えたうえで、できるだけ専門用語を使わず、わかりやすい文章に仕上げる必要があります。そのような文章を書くには、自分が書く内容をどこまで自分の中で噛み砕いているかが大切になってきます。

 

ですから、参考サイトからなんとなく引っ張ってきたりとか、前の先輩が使っていた文章表現をガッツリ使っていたりとか、そういう文章を見ると手ー抜いてんじゃねーぞ♥みたいなことを考えちゃうんです。

 

 

 

こんなのを今日はまぁ大体3時間ぐらいやってんですけど、さすがに3時間も何が何やら分からない文章を読んでいると、やはり段々頭がおかしくなってきまして。あるラインを超えると、ひょっとしてこれらの文章を理解できない私の頭の方がおかしいんじゃないかと思い始めるんですよ。そこから添削作業がトンと捗らなくなってしまって。

書いた人間に罪があり、文章そのものには罪がないのに、文章そのものが不愉快になってくるんですよ。

 

これがあと部誌印刷まで永遠と続くことを考えると多少うんざりはしますが、私の添削に文句も言わずにいてくれる後輩たちを考えると投げ出すわけにも行きません。

こういうのは最初が辛いだけでしょうからね。段々楽になっていくもんだって私信じています。信じています。

 

 

 

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よく考えたら私も添削作業するんですから、こういう本読んで文章力上げたほうがいいんでしょうね。もっと勉強せねば。

 

 

次回はちょっとくだらないこと書こうと思います。それでは