しがない学生の雑記

吐けども吐けども毒を吐く。

過程を評価してくれる人はすごく少ない

こんばんは。久しぶりに一日に2記事目書いています。

 

ラグビー日本代表南アフリカ代表に勝ったということで、世間では連日この話題が報道されていますね。私はラグビーのことはほとんど分かりませんが、それだけ凄いことをやったってことなんでしょう。

 

ですが今回のラグビーの試合、「勝たなかったら見向きもされなかった」という印象があまりにも強すぎてどうも素直に見れないんですよね。

 

特にそれを如実に表しているのが日テレの生中継の話。

 

kabumatome.doorblog.jp

 

報道では日本が勝つ方の賭け率が900倍という馬鹿げた数字が出ていたぐらいですし、そもそもラグビーそのものの人気もサッカーや野球とは比べ物にならないですから、日テレが生放送をしないというのは考えてみれば当たり前だったのだと思います。

 

要するに、誰もラグビー日本代表が勝つなんて思ってなかったんですよ。勝ったから評価されているってだけで、これもしも負けたら話題にすらならなかったんじゃないでしょうか。スポーツニュースで1分報道されるかどうか程度だったんじゃないかと思います。

 

あんまりラグビー日本代表の話をすると、まるで勝たなきゃよかったみたいに思われそうなのでこの辺にしておきます。それで、今回の話題で少し思い出したことがありまして。

 

 

評価される対象は結果のみ?それとも過程も含めるべき?

もはや永遠に議論の対象であろうこの問題。今回の件を見ていたらこの問題についてちょっと思うところがあったんです。

 

そもそも論ですが、この問題で言うところの「評価」とは、誰かが誰か(あるいは複数の人物)の行いに対して評価をすることです。そして「過程」はその誰かが行ってきた行動であり、「結果」はその行動が何かの形になったりならなかったりしたことだと、私は考えています。

 

その上で最初の問題に戻ると、これって問題単体で見れば、最後の最後はその人の考えによりけりなんです。努力したことが大切だとか、残るのは結果だけとか、最後はその人の価値観に依存して答えが出るので、どちらがどうってのは本当だったら何も言えないんですよ。

 

 

結果だけが広く伝わる

でもここで、結果は広く伝わるという前提を加えると、だいぶ話は変わってきます。今回のラグビーの一件にしろ、中学校の部活の県大会にしろ、規模は違えどその結果はある程度の範囲の人間に伝わるのは、みなさんも想像がつくと思います。

 

これが何を意味するかというと、評価する人間が過程を評価する側であろうがなかろうが、結局その人は結果だけを見て評価することが多いのです。そして、よくも分からずにとりあえず喜んで、良かっただのおめでとうだの心にも無いことを言うんです。

 

ここまでは良い結果が広まるということを話していましたが、結果が悪いものであったとしても、やはり広まるには広まるんですよ。そしてそれを見て評価する側の人間は、過程も知らずにボコボコに叩いたりけなしたりするのです。

 

ここでようやくタイトルを回収すると、今まで話してきた内容を裏返せばわかる通り、評価される人の過程を知って、その過程を評価してくれる人間はごく限られた数になるんですよ。しかも過程を評価してくれる人って、言い換えれば過程を知っている人のこと、もっと恣意的に言えば内輪の人間に限られるんですよ。

 

もう一回書きます。過程を評価してくれる人は内輪の人間しかいないんです。もうなんか、すっごい虚しくなってきませんか。

 

 

まとめ

まとめると、最初に挙げた問題は実はどうでもよくて、結果を見て評価する人間の方が圧倒的に数が多いので、世間から評価されたいのであれば、評価してくれる人がごく限られているであろう最大限の努力をして、とにかく結果を残して、その結果が広がって、いろんな人が評価してくれる状況を作らなければいけないのではないでしょうか。

 

なんか、世間って、人生って残酷な気がしてきます。

 

 

 

 

 

次回はもうちょっと希望にあふれた記事を書きたいな……。