しがない学生の雑記

吐けども吐けども毒を吐く。

終戦記念日なので100歳で死んだ曾祖父の話を書く

こんばんは。

 

忘れる前に書かないとなって思ってだいぶズルズル引き延ばしていたネタなんですが、今年は終戦記念70年だそうですので、ちょうどいい機会だと思って書きます。

 

こんなタイトルにしていると戦時中の話ばかり書くのかと思われそうですが、中身はそうでもないのでその辺はご勘弁ください。あと、曾祖父や母方の親戚から直接聞いた話を記憶の限り書いているので歴史的に間違っていることもあるかもしれません。その辺はコメントなどで補足して頂けると自分も嬉しいのでぜひお願いします。

 

 

私には母方の曾祖父がいました。私がものごごろついた頃には90歳台に突入していた、明治生まれの生き証人でした。

 

こんな書き方していると、終戦後に日本に戻ってきた兵隊さんみたいに読めると思うんですが、実はそんなことはありません。曾祖父が亡くなったのは2008年だったはずなので、第二次大戦当時はたぶん30代ぐらいだったと思います。だから、当然徴兵の対象になっても不思議ではないのです。

 

しかし、曾祖父は身長が低く生まれつき体も弱かったこともあって、徴兵されなかったらしいのです。なので、戦時中はずっと日本に居ました。

 

これだけ読むと、少し幸運な話みたいに読めちゃうじゃないですか。私も最初そう思ってたんですよ。だって、殺し合いに行かずに済んだんですから。

 

でも、実際はそんな生易しいものじゃなかったそうです。

 

 逆に考えてみて頂けるとわかると思うんですが、周りには家族が徴兵された人がいるんですよ。そうなると、嫉妬とか、逆恨みとか、憎しみとか、本来ならそういうのって敵国である連合国に向くはず、というか、そういう時代ですから、そうなっていたはずだと思うんですが、そういう矛先は私の曾祖父にも向いたのです。

 

だから、いろいろと酷い目にあったらしいのです。

 

実はこの辺りは詳しく聞けていません。当時私が幼かったですから、私に話せるような内容じゃなかったのかもしれません。しかしこの話をしていた時の曾祖父の顔を見ると、とても詳しく聞き出そうなんて思えないほど、悲しい顔をしていました。

 

そんな中で、周りの知人や友人が徴兵され、戦地でその人達が死んだ知らせを聞いていたのだと思うと、こちらまで苦しくなってきます。

 

そんな中を生き抜いた曾祖父は、やはり強い人間だったのだと思います。

 

 

 

一つだけ、絶対にわかっているのは、やはり食べ物に困っていたということ。

 

これは私も見ていたので覚えていたんですが、腐りかけ、というよりも腐っていたバナナを曾祖父が食べようとしていたことがあって。そんなことしようとしてるもんだから、祖父や祖母、母も一緒になって「そんなもん食べる必要はないだろう」って躍起になって止めようとするんですよ。

 

でも曾祖父は、「いいんだ、まだ食べれるから」っていって、頑なにそれを捨てようとはしませんでした。こういうことはしょっちゅうあって、どう見ても食べたら体に悪そうなものも曾祖父はまだ食べれるから良いと言って必ず食べていたように思います。

 

そういう意味で、曾祖父はいつも食物に対して、何か緊張感のようなものをもっていたように思います。「次いつ食えなくなるか分からない」という脅迫概念、とでも言えばいいんでしょうか。適切な言葉は見つかりませんが、食物に対するありがたみと、執着というものは、戦時中についた癖がいつになっても抜けないようだったのです。

 

特にバナナについてはそれが顕著だったのを覚えています。曾祖父はバナナが大好きでした。戦時中や戦後に一番食べたかったものがバナナだったからです。今になって調べたんですが、当時バスに十円で乗れる時代にバナナが三十円だったそうです。そもそも食い物に困っていた時代ですから、そりゃもう相当な高級品です。御存知の通り、そんなバナナも今では容易に手に入り誰もが食べれるものになってしまいました。それでも曾祖父の中では、バナナは「食べられるだけでありがたいもの」でした。だからこそ、見た目がどんなに茶色かろうが、身の部分がすこし黒ずんでようが、そんなこと気にもせずに、笑顔でバナナを食べていたんだと思います。

 

 

 

 

ここで少し戦時中から話が外れてしまうのですが、曾祖父はそもそも学校に通えていませんでした。

 

と言うと、なんかおかしな気がすると思うんですよ。だって、明治生まれと言ったら、歴史の授業で習ったとおりなら、それなりの学校施設があってそこで勉学を行っているもんじゃないですか。

 

実は曾祖父は幼いころに奉公に出され、どこかの家に住み込みで働きに出ていたそうです。だからって学校に通えないというのもなかなかにひどい話なんですが、じゃあそれがどういうふうになるかって言うと、漢字が書けないんです。

 

これは母から聞いた話なのですが、私から見た母、伯父、伯母が幼いころに、自分の名前と住所を感じで書けるように必死に練習していたそうです。恥ずかしいから、隠れてこそこそと、それでも一生懸命、情けなさを拭うように書いていたそうです。

 

母の年齢からして、曾祖父の年齢はおそらく40歳台、あるいは50歳台に入っているのかもしれません。その年まで、自分の住所も、名前も、漢字で書くことができなかったなんて。今考えても、信じられないものがあります。

 

だからこそ、曾祖父の「勉強しとけ」という言葉の重みはとてつもなく重いものでした。自分のような目に合わないように、自分のような辛さを感じることがないように。そういう思いで曾祖父は私に勉強しとけと言ったのでしょう。

 

 

 

 

ここからは私の記憶の限り書くのですが。

 

タイトルにもある通り、曾祖父は長生きしました。長生きするということは、人の死に目をたくさん見るということでもあります。

 

私が幼いころの曾祖父は、結構な頻度で葬式に行っていたのを覚えています。周りの人たちも一緒に年を取っていくのですから、知人の中で生きている人も当然減っていくはずです。

 

曾祖父も年をとっていたので、それなりに遠出するのは辛かったと思うんですよ。私も今以上に無神経な馬鹿なガキだったので、「無理していかなくてもいいんじゃないの?」とかなんとか、そんなことを聞いちゃった記憶があります。

 

その時に曾祖父は、確か、こう言ってました。

 

「戦争で葬式すらあげられなかった人達もたくさんいるんだから。」

 

こんなふうに返された記憶があります。

 

 

 

曾祖父は99歳と数ヶ月で逝去しました。もともと笑顔で「俺は100歳まで生きる」と豪語していた曾祖父。晩年は寝ていることも多かったのですが、それでも食事の時は相当食べて毎晩晩酌もしていましたし、この意気なら本当に100歳まで生きるんじゃないかと思っていたんですが、98歳の後半になって急に体にガタが来たらしく、入院と退院を繰り返し、最後は老衰で亡くなりました。

 

でも、数えでは100で死んだことになるんですよね。だから位牌にも百歳って書いてあって、最後の最後に有言実行して亡くなっていったことになるんですよ。

 

やはり、曾祖父は本当に強い人間でした。

 

 

 

 

本日は終戦記念日ということで、こんな記事を書いてみました。結局、戦争の話は全然書けていないし、どれもこれも曖昧だし、中途半端だし、正直書いて意味があったのかわからないんですが、もしもこの記事を読んで少しでも皆様に思うところがあったならば、それほど嬉しいことはありません。それこそ、曾孫冥利に尽きます。

 

なんか、柄にもないことを書いて、少し疲れてしまいました。今年のうちに、墓参りにでも行きたいとおもいます。